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サウンドデザイナー洪 泰和による所謂ブログでございます

曖昧なものを曖昧な侭に受け容れる

2021-01-04 22:17

2021年明けましておめでとう御座います。
年末年始の暴飲暴食で体調悪いです。
デフォルトです。
では恒例の書き初め。

罔両

“もうりょう”または”うすかげ”と読みまして、影の周りにあるぼんやりとした薄影を指す言葉です。

人生は決断の連続ではありますが、完全な答えもまた存在しないもので御座います。
とは云え、人は未知なるものに対する不安を収めようと何かと答えを付けたがるのもまた性なのかなと。
その答えが真意を歪めてしまう事は多々ある事でして、”曖昧なものを曖昧な侭に受け容れる”度量が大事かなと思う昨今で御座います。

罔両は影の境界でありながら、その区別は曖昧。
現実はデジタルの様に0か1ではなく、その曖昧な境界もまた存在する訳です。
その曖昧さを受け容れた上で自分が何を考えどう行動出来るか、そこをもっと突き詰めていきたいなと、そんな思いで筆を取りました。

罔兩、景に問いて曰わく、
「曩には子行き、今は子止まれり。曩には子坐し、今は子起てり。何ぞ其れ特操無きや」と。
景の曰わく、
「吾れは待つ有りて然る者か。吾が待つ所も、又待つ有りて然る者か。吾れは蛇蚹・蜩翼を待つか。悪くんぞ然る所以を識らん。悪くんぞ然らざる所以を識らん」と。

上記は『荘子』の一節ですが、罔兩が影に対して「主が動くがままに動かされて主体性はないのか?」と問うと、影は罔両に対して「自分は主が行動するままに合わせているが、主もまた何かに合わせる様に行動しているのではないか」と云った問答を行う内容です。

自らの意思で行動している様に思えて、実は何らかに動かされているのではないか?
影は自分に合わせて動いていると思っているが、影に合わせて自分が動いているとは考えられないか?
当たり前として受け入れている現実は本当に当たり前の事なのか?などを考えさせられます。

そんな事を問いたい2021年です。
本年も宜しくお願い致します。

  • 2021-01-04
  • カテゴリー: 書初